椎間板ヘルニアと坐骨神経痛の自転車野郎

椎間板ヘルニアと坐骨神経痛で岐阜県岐阜市からやって来た自転車野郎のSさんが無事に回復して帰って行った整体師の思い出を紹介しているページです。

椎間板ヘルニアと坐骨神経痛の自転車野郎

銭湯で見知らぬ人物から会釈される

私がSさんを初めて知ったのは東京都中野区中野に住んでいた私のアパートから一番近い銭湯(公衆浴場・湯屋・風呂屋)でした。

礒谷療法所(礒谷式力学療法総本部)での仕事を終えてアパートへ帰って来た私はいつものように歩いて近所の銭湯(公衆浴場・湯屋・風呂屋)へ行きました。

番台で料金を支払い、脱衣場で着衣を脱ぎ始めていると、浴室の洗い場の湯屋カラン列(島カラン)の前に座っている知らぬ人物が満面の笑顔を浮かべて私のほうを向いて挨拶らしき会釈をしているのに気がつきました。

私はその人物にまったく見覚えがなかったし、東京で大学時代の知人以外に知り合いもいないことから、私に挨拶をしているのではなく、私の背後に誰かいてその人に会釈をしているのではないかと思いました。

ところが、後ろを振り返ってみても誰もいません。

そうすると、やはり私に向かって挨拶をしているのだろうかとしか考えられません。

謎の人物は私をまるで長年(20~30年)の親友であるかのように笑いかけてくるのです。

謎の人物Sさんとの出会い

私は浴室へ入って謎の人物に近づいて行きました。

そして、謎の人物から話を聞くと、何と!礒谷療法所(礒谷式力学療法総本部)の患者さんだということが判りました。

私は礒谷療法所(礒谷式力学療法総本部)で既に謎の人物に会っていたのです。

ところが、私には謎の人物ことSさんの記憶がまったくありませんでした。

私は礒谷療法所(礒谷式力学療法総本部)で毎日大勢の患者さんに接しているので、常連の患者さんは別にして、新患さんの場合などはよほど印象的な人物でないと記憶していなかったのです。

もともと私は人の顔を名前をなかなか憶えられないところもありました。

Sさんは礒谷療法所(礒谷式力学療法総本部)の先生ということで、私の顔を憶えてくれていたわけです。

私の話を聞いて矯正治療に専念するため上京を決める

とにかく、謎の人物であったSさんが礒谷療法所(礒谷式力学療法総本部)の患者さんだと知って、私はSさんといろいろな話をしたと思います。

ただし、銭湯で何の話をしたのかはよく憶えていません。

後になって、Sさんから聞かされた話では、私は矯正治療に専念するため上京して礒谷療法所(礒谷式力学療法総本部)のある中野区でアパートを借りて1年間矯正治療に専念していたという話を、Sさんは私から聞いたというのです。

私の話のおかげで、Sさんも矯正治療に専念するため岐阜県岐阜市から上京して礒谷療法所(礒谷式力学療法総本部)の近くでアパートを借りる決意をしたということでした。

私はSさんにそんな話をした憶え(記憶)はまったくありませんでした。

しかし、その話をおかげで、Sさんも私と同様に礒谷療法(礒谷式力学療法)の矯正治療に専念して取り組むことになったわけで、何が幸いするかわからないと思います。

Sさんからその話を聞かさたとき、私はSさんとの不思議な縁を感じました。

自転車野郎が腰痛になってしまう

Sさんは趣味が自転車ということで、世界のあちらこちらの地域を自転車で旅をしていたという経歴の持ち主でした。

Sさんはアルバイトをしてお金を貯めては自転車で世界の各地域を旅行するのが好きだったというのです。

Sさんは旅先で見知らぬ世界の人々と初対面で仲良くなれなければ生きていけないため、初対面の人でも人見知りすることなく誰とでも親しくなれるということでした。

人見知りすることの多い私とは性格的に随分違う人だなと思いました。

私はその話しを聞いて、Sさんのあの銭湯(公衆浴場・湯屋・風呂屋)での満面の笑顔は、Sさんが旅で身につけた初対面の人でも何十年来の知己であるかのように接することのできる特技であったのかと納得できました。

そんな自転車で世界中を旅していた健康で元気なSさんなのだけれども、突然、(腰椎)椎間板ヘルニアと座骨神経痛になってしまったというのです。

Sさん礒谷療法(礒谷式力学療法)と出会う

Sさんは(腰椎)椎間板ヘルニアによる腰痛と坐骨神経痛がひどかったのか、1年間も病院へ入院していたということでした。

その時は、1年間の入院という話を聞き流してしまいましたが、後から考えると(腰椎)椎間板ヘルニアによる腰痛と坐骨神経痛という病気・症状で1年間の入院というのは長過ぎるのではないかと思いました。

私の聞き違いだったのかもしれませんが、本人に確認できていないので1年間入院していたという話は事実かどうかわかりません。

もしかしたら、入院期間はもう少し短かったのかもしれません。

その病院で、Sさんは遠藤周作氏の『治らないと諦めている人へ贈る私が見つけた名治療家32人』という一冊の本と出会います。

その本に収録されていた「礒谷公良氏〈腰痛、ヘルニア、ギックリ腰など〉―礒谷式力学療法で、腰痛・ヘルニアに著効あり」という紹介記事の項目に目がとまったというのです。

Sさんはその本で紹介されていた礒谷公良氏の「礒谷療法(礒谷式力学療法)」に興味を持ったというのです。

Sさんは礒谷公良氏の「礒谷療法(礒谷式力学療法)」のことを何だか面白そうな治療法だと思ったというのです。

それで、Sさんは礒谷療法(礒谷式力学療法)を受けるために上京して、東京・中野区の中野2丁目にある礒谷療法所(礒谷式力学療法総本部)へ来院したというわけです。

そこで、Sさんは私と出会い、礒谷療法所(礒谷式力学療法総本部)の近くにアパートを借りて矯正治療に専念することになったわけです。

Sさんの矯正治療

Sさんは礒谷療法(礒谷式力学療法)の矯正治療を開始して最初の1カ月間は毎日来院して1日に2回の矯正治療を受けていました。

Sさんは(腰椎)椎間板ヘルニアによる腰痛と坐骨神経痛がひどかったせいで脚を引きずって歩いていました。

Sさんが良くなってから聞いた話があります。

礒谷療法(礒谷式力学療法)では屈伸運動という運動療法をやらなければなりません。

Sさんは矯正治療開始の初期の頃、この屈伸運動が痛かったらしいのです。

Sさんは(腰椎)椎間板ヘルニアと坐骨神経痛とでただでさえ痛いのに、なんでこんな痛い思いをしてこんな屈伸運動をやらなければならなのだろうかと思ったと言うのです。

この時期がSさんにとって一番辛い(つらい)時期だったようです。

それでも結果的にSさんはやり抜いたことになります。

そんなSさんも、矯正治療を開始してから約1カ月ほどして1日に2回受けていた矯正治療が1日に1回へと減りました。

約1カ月の矯正治療で(腰椎)椎間板ヘルニアによる腰痛と坐骨神経痛が少し改善したのでしょう。

そして、Sさんが矯正治療を開始してから約3カ月ほど経過した頃には(腰椎)椎間板ヘルニアによる腰痛と坐骨神経痛はかなり軽快しました。

その頃になると、Sさんの矯正治療も毎日ではなく1週間に2~3回くらいに減っていました。

Sさん、アルバイトを始める

Sさんが矯正治療を開始してから約4カ月ほどした頃であったでしょうか、Sさんは東京・池袋にある西武池袋本店のフロアにあるスポーツセレクトショップ専門店で自転車(サイクル・バイク)コーナーのアルバイトを始めることになりました。

Sさんの(腰椎)椎間板ヘルニアによる腰痛と坐骨神経痛はアルバイトを始めるられるほどに回復したわけです。

Sさんが西武池袋本店でバイトしているというので、私も一度Sさんのバイト先へ訪れたことがあります。

バイトができるほどSさんが回復して良かったと喜んだものです。

せっかく始めたバイトを辞めてしまう

ところが、Sさんはアルバイトを始めて間もないのに、急にバイトを辞めてしまいます。

せっかくアルバイトができるまでに回復したのに、なぜバイトを止めてしまったのか、私はSさんにその理由を聞きました。

Sさんによれば自分は自転車の組み立てや修理の腕には自信があると言うのです。

それなのに、そこでの時給が自分の知識や技術に見合っただけの金額ではないと言うのでした。

Sさんは自転車以外のアルバイトだったらその時給でも満足して働くけれど、自転車のバイトで自分の経験と腕でその時給では不満だというのでした。

自分の提供できるサービスの質がその時給(報酬・対価)では正当な評価をしてもらえていないと考え、それで条件が折り合わずバイトを辞めて来たというのです。

Sさんは強烈な個性の持ち主で、日本人よりも欧米人に近いような自己主張のはっきりした押しの強い性格の持ち主でした。

Sさんは楽しければ良いという考えの持ち主でもあり、例えば一人で食事をするよりもみんなで食事をしたほうが楽しいからということで、複数の人たちと付き合うことを好んでいました。

もっともSさんにも人の好みというものはあったようです。

早朝から夜遅くまでの本格的なバイトを始める

さて、Sさんは矯正治療を開始してから約6カ月ほどした頃に、東京・神田の登山用品とアウトドア用品の専門店「さかいやスポーツ」というお店でアルバイトをするようになりました。

「さかいやスポーツ」というお店はアウトドアでは有名なショップということでした。

実は、私はこの「さかいやスポーツ」というお店の存在を知っていました。

というのも、私が大学時代に通っていた日本大学法学部の近くにあったからです。

水道橋駅を下りて日本大学法学部へ通う白山通りに「さかいやスポーツ」の店舗があったのです。

私はお店の存在は知ってはいたものの、「さかいやスポーツ」がアウトドアの世界では有名なアウトドアショップだとはまったく知りませんでした。

一日中立ちっぱなしのバイトに苦しむ

Sさんの「さかいやスポーツ」でのアルバイトは早朝から夜遅くまでの長時間勤務だった。

西武池袋本店での数時間のアルバイトとは比較にならないほどの長時間でした。

まだ(腰椎)椎間板ヘルニアと坐骨神経痛が完全に回復していないSさんにとってこれだけの長時間にわたっての立ち仕事はきつかったようでし。

アルバイトから帰ってくるとかなり疲れた様子でした。

そこで、しばらく私がSさんを担当して毎日矯正治療を行ってあげることになりました。

その頃、Sさんは毎日矯正治療を受けられるので助かったという顔をしていたのを憶えています。

おそらくSさんは極度の疲労と痛みを感じていたのでしょう。

体に自信を持てるようになる

しかし、そうこうするうちに、Sさんの(腰椎)椎間板ヘルニアと坐骨神経痛がかなり回復したことと、アルバイトの長時間の立ち仕事に身体が慣れたこともあって、バイトを始めた頃ほど立ち仕事が堪え切れないということもなくなってきたようでした。

アルバイトの長時間の立ち仕事でもSさんは疲れなくなって、立ち仕事が楽になってきました。

Sさんは毎日矯正治療を受けなくても済むようになってきました。

私は一度Sさんの様子を見るために「さかいやスポーツ」へ寄ったことがあります。

Sさんは「さかいやスポーツ」の店内でちゃんと元気に働いていました。

私はSさんの元気な様子を見て良かったと思いました。

Sさん、帰郷を決意する

そうして、Sさんは礒谷療法(礒谷式力学療法)の矯正治療を始めてから約1年ほど経過した頃に、自分の体力(体調)に自信がついたということで故郷の岐阜県岐阜市に帰郷することになりました。

その頃には、Sさんと私は一緒に食事をしたりいろいろな話をしていたので友だちのようになっていました。

そのため、Sさんが帰る日は、私は何とも言えないほど淋しく悲しい気持ちがしました。

今でもよく憶えているくらいです。

Sさんの場合は上京して礒谷療法(礒谷式力学療法)の矯正治療を開始してから帰郷するまで約1年間かかっています。

私の臨床経験では、椎間板ヘルニアと坐骨神経痛の患者さんでSさんのように約1年間もかかる人は少ないです。

椎間板ヘルニアと坐骨神経痛の患者さんの多くはそれ以前に回復されているのが通例です。

椎間板ヘルニアと坐骨神経痛の患者さんで、早い人だと数回の矯正治療で回復される場合もあるし、通常は数カ月の矯正治療で回復されています。

Sさんが約1年間にわたる矯正治療の期間がかかったというのは、それだけSさんの椎間板ヘルニアと坐骨神経痛が重症だったということの証拠にもなります。

自転車専門店の店長になる

さて、地元へ帰郷したSさんは、地元の岐阜県岐阜市にあるスポーツサイクル自転車専門店の雇われ店長になります。

その後、Sさんはスポーツサイクル自転車専門店を買い取ることで譲り受けオーナー店長になりました。

Sさんは仕事の関係で東京へ上京することもあって、Sさんが上京すると私はSさんと会ったり、私のアパートに泊まってもらったりしていました。

私はお正月やゴールデンウィーク、お盆などの休みで故郷の赤穂市へ帰る途中で岐阜県岐阜市にあるスポーツサイクル自転車専門店へ寄ってSさんと会ったりしていました。

Sさんのその後の体調

Sさんのスポーツサイクル自転車専門店へ寄ったとき、Sさんによれば完全な健康体を10としたら現在の自分は9くらいの健康状態だという話を聞かされました。

Sさんは自転車の仕事は腰をかがめて作業をすることも多く、腰に負担のかかる姿勢が多いが、何とか仕事ができているとのことでした。

Sさんは普段は礒谷療法(礒谷式力学療法)の自己矯正法は実行していませんが、腰の調子がおかしくなると自己矯正法を実行しているとのことでした。

引越を手伝ってくれる

私が礒谷療法所(礒谷式力学療法総本部)を辞めて地元の赤穂市へ帰ることになったとき、Sさんはわざわざ岐阜市から上京して私のアパートへやって来て引越の手伝いをしてくれました。

Sさんは私の体調のことをよく知ってくれていて、常に私の体調を気づかってくれていました。

いつだったか、Sさんが私のサンダルを履いたとき、私のサンダルの凹み具合(へこみぐあい)で、私の体がいかに具合が悪いかが分かったような気がすると言ったことがあります。

私はSさんが常に私の体調に気を配ってくれていたのをいつも感じていました。

私はSさんの優しさを感じていました。

Sさんはそういう優しさも持っている人でした。

Sさんは優しさだけでなく心配りもできる人でした。

赤穂へ遊びに来てくれる

私が礒谷療法所(礒谷式力学療法総本部)を辞めて独立開業してから、Sさんは私の自宅へ来てくれたこともあります。

Sさんには自宅へ泊まってもらいました。

Sさんが患者さんと結婚

Sさんと私との思い出を書いてきましたが、Sさんにはもう一つの運命的な出会いの思い出があります。

実は、Sさんは礒谷療法所(礒谷式力学療法総本部)へ患者として通っている間に知り合った福島県から来ていたSちゃんという若い女性の患者さんと結婚したのです。

Sさんは外向的な性格なので、ほかの患者さんとも積極的によく会話をしていました。

その患者さんたちの中に、Sちゃんがいて、Sさんが分け隔てなく話してくれていろいろ構ってくれるので、SちゃんがSさんのことを惚れてしまったのです。

当初、SさんはSちゃんにそれほど気があるというわけではなかったようでした。

というのも、私はSさんからそういう話を聞かされたからです。

その時、私はSさんに

「Sちゃんのように自己主張の強いSさんのような男に惚れてくれるような女性は今後現れないのではないか。Sちゃんを逃すと一生後悔するぞ。」

というような内容のことを言ったことを憶えています。

私が言ったことがSさんの気持ちに何らかの影響があったのかわかりませんが、その後、SさんからSちゃんと付き合うことにしたと聞かされました。

私はSさんからSちゃんと真剣に真面目な交際をするという決意を聞かされ、私はSさんが男気のある男らしい漢(おとこ)だと感心してしまったことを憶えています。

私はSちゃんと礒谷療法所(礒谷式力学療法総本部)の同じ部屋に泊まっていて親しくなっていたS・Kさんという女性から、SちゃんがS・K(女性)さんに相談したSさんとSちゃんとのお付き合いの内容なども聞かされたりもしていました。

Sさんが故郷の岐阜市へ帰郷することになって、私はSさんとSちゃんのお付き合いがどうなるのか気になっていました。

Sさんは帰郷してから1週間に1度の割合で私のアパートへ電話をしてくれていて、Sさんからの電話で、岐阜県のSさんと福島県のSちゃんは遠距離恋愛になるが、SさんはSちゃんと真剣に真面目なお付き合いしていることを聞かされました。

Sさんが東京へ上京した折に、Sさんと会った私はこれからSちゃんと会うのだと聞かされたことがあります。

それで私は、Sさんが上京するのに合わせて、Sちゃんも上京して来ていて、二人で中野区で待ち合わせをしているのを知りました。

私が礒谷療法所(礒谷式力学療法総本部)を辞めて独立開業してから、しばらくしてSさんから電話があってSちゃんと結婚することになったことを知らされました。

結婚式に出席

Sさんから結婚式の連絡をもらったとき、Sさんは私の体のことを気づかって結婚式には出なくても良いよと言ってくれました。

私はSさんとSちゃんの結婚をどうしても祝福したくて結婚式に出席する旨を申し出ました。

Sさんは私のためにホテルを手配してくれて、JR岐阜駅まで迎えに来てホテルまで送ってくれました。

それで、私はSさんとSちゃんの結婚式の会食パーティに出席することができました。

その後、SさんとSちゃんとの間にはお子さんも生まれました。

Sさんとは毎年年賀状のやりとりをしていて、年賀状によってはSさんやSちゃん、お子さんの写真が載っていることもあります。

SさんとSちゃんの結婚生活はうまくいっているようで、親子共々仲良くやっているのだろうなと思いつつ私は密かに喜んでいます。

あれから2017年の現在、25年近くになりますが、Sさんは何とか仕事をやれているようです。

外部リンク

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